タケノコとワラビ
2008年 04月 18日
今週末は、タケノコご飯と味噌汁作くって楽しみます。
ベトナム産のタケノコもなかなか旨いですよ。
今度帰るとき、もってかっか。
今度の帰国はいつですかぁ~?
川根村の12歳の小僧っ子は、土曜日に家に帰ってから友とふたりで鵜山に向かったたとさ。
両手で掴めるだけのワラビを採って、自転車で家山村の「川徳」に
持込んだんじゃー。小さな手で持てる量ってたかが知れてるんじゃけど
90円で買い取ってくれたんだとさー。小僧っ子らは帰りに本屋に寄って
少年サンデーを買いました。それでも手元に10円玉が何個か残っている
のに、不思議な感慨を覚えましたとさ。
鵜山のわらびって高級品だったんですね。
みなさんは、「おつぼ」って知ってますか?田んぼにいるタニシです。
これは茹でて食べるとおいしいもので、このおツボ拾いが女の子たちの春の日課でした。毎日バケツの半分くらいは拾ったので、さすがの大家族でも食べきれず、余ると神谷城から金谷小学校への登校のとき、殻のままのおツボを風呂敷に包んで提げて行き、途中の坂町のおじいさんに買い取ってもらいました。
枡の大盛りで一升一銭。よいときで二銭になりました。他の子たちも1升や2升は持ち寄るので、おじいさんはその日のうちに市場へ持っていく。私たちは学校の帰りにおじいさんからお金をもらって親に渡しました。
ある時、お弁当のおかずに今でいう「鰹の角煮」がほしくて、母に「おツボのお金で買っていい?」と聞くと、母は黙って頷いてくれました。学校の帰りに二銭で買いました。三角に折った杉板に盛られた角煮が新聞紙で包まれて、小学4年生の手のひらに確かな重みで乗ったのでした。
70年近く前の話です。
寄り道ばっかりしていて誰かが届けてくれたランドセルが家の前で待っていたこともありました。40年前 上州にてです。
私も子供のころ菊川の親戚の家の前のたんぼでとりました。
忘れていた記憶がよみがえってきます。
たんぼに入ってタニシを見つけて取ることが楽しくて大好きでした。食べるのも・・・
懐かしい思い出です。
いい時代だったなぁ
なかったからでしょう。山の奥に踏み込めばあったんでしょうけどね。
それから沢蟹ですよ。近くの連中が、魚屋に行って魚の切り落としや
アラをもらって、大井川の支流の小さな川に入り上流に向かって蟹の
餌を撒きながら行くんですよ。帰りは川を下りながら餌に寄ってる蟹を
捕まえて、これも家山の蟹屋に持って行くと一匹5円で買い取ってくれた
そうです。その話をきいて一週間後に挑戦しましたが、さすがにこの間隔
では蟹の数が集まりませんでした。沢蟹をどんな人が食べるんだろうと
不思議でしようがなくて、後で聞いた話では横浜の中華街に出荷すると
聞いて、こんなもんを横浜の人は食べるのかと信じられない気持ちで
いっぱいでした。本格的な中華の店には(招待ですが)度々行きましたが
未だにお目にかかってません。蟹は時期がいいとバケツ2杯くらい獲れた
ようです。
私は特別都会で育ったわけでもないけど
わらびを採った事も、沢蟹やタニシを捕まえたこともありません。
沢蟹は大人になってから多分童沢で見せてもらったのがはじめて。
タニシってどんなん?よくわからないのです。
実はザリガニを捕まえたこともないです。
ただ単に家の中で本を読んだり自分で紙芝居を作ったり
着せ替えで遊んだり塗り絵をしたり
そんなことばかりしてたのかも・・
思い出したのです。タニシとったりおおばこ相撲したり麦笛つくったり桑の実食べたりしてたころ学校へいく途中の2カ所、農家の外井戸にベコベコのアルミのカップが鎖でぶらさげてあり みんな「お水くださ―い!!」っていってのみました。
大きな声でことわるのは礼儀 飲み終わったら返事がなくても「ごちそうさまでしたー」というのがきまりでした。冷たくておいしかった。いつも大人がどこかでみていてくれるような登下校の道は安心感がありました。そういう街にしたいなあ〜とおもいました。
冷たい井戸水をペコペコのアルミのカップでごくんと飲んで生き返ったような幸せを感じました!